歴史ミステリーとして今も闇に包まれている本能寺の変 - なぜ起こったか、について語る。現地に赴いて、資料を調べてみて、などということは一介のサラリーマンには無理な話だ。あくまで説である。とはいえ、雑多な情報が提供され、何を信じればいいかわからない状況で、より真理に近いものを選ぶというプロセスと意思決定は現代において重要なキーアビリティである。現代の情報過多の時代にあってそれがどのように生活に関係するのか、どのような時代に向かっていくのか、それを吟味するのは個々人に委ねられている。ただ、多くの人はそれを考えようともせず、唯々諾々とテレビのコメンテーターや社会の多数決による雰囲気に乗っかるだけの空虚な人生を受け入れてしまっている。常識を疑う訓練。これは歴史という正解が必ずあるが、情報として不足している中で何が真実かを捉える良い訓練である。歴史とは覚えることではなく、出来事と出来事の因果関係を推論すること。その推論にどれほど説得力を持たせることができるかが一つの能力の証明とは言えないだろうか。
キリシタンとかかわりの深い大名
はあ?と思われる方も多いと思う。一般的にキリシタンと言われていない前田家などなぜ入っているかわからないだろう。詳しくは「秀吉はキリシタン大名に毒殺された」を見ていただければわかるかと思うが、簡単に説明すると金沢に旅行に行った方はわかるかもしれないが、金沢中心部では綺麗な浄水路が整備されている。それは近代のものではないことは明らかである。これは前田家が作ったものとされているが、その基盤は西洋の治水方法を導入したものである。ということはかなりキリシタンと深いつながりがあることがわかる。また、追放された高山右近が長らく前田家で匿われていた事実もある。そいうった事実を鑑みるとキリシタンまたは隠れキリシタンと呼ばれる人物であったとしても全くおかしい話ではない。
そもそも生きるか死ぬかの時代において先進的な道具や考え方はその時代のキーファクターである。なんとしても手に入れたいと考えてもおかしくない。一族や近所が入れとうるさいから仕方なく宗教に入るのとはわけが違う。芸能界においても特定の宗教団体が入り込んでいるようだが、入信すればそれだけで仕事が増えるとわかればたとえ帰依していなくても入信するに十分な理由となる。そうなると短期間で信者があっという間に増える。信長は当初南蛮を前向きに受け入れていた。その知識や道具が欲しかったのだろう。ただトップに立つ人間にとって自分より上の神がいることやつまらない戒律よって自分の行動を制限されるのは嫌ったであろう。そうなると実際に知識を使う側の人間、つまり信長配下の者が実際には南蛮との結びつきが強くなる。いろいろ教えを受けていたのはまさに明智光秀、豊臣秀吉というところになるであろう。特に彼らは畿内を担当し、堺というまさに貿易の中心、かなり南蛮の息がかかったところと関係を持つことになる。毎日、施策について堺の商人たち相手に会合していたであろう。その中で、信長を排除したほうが堺にとっても、武将側にもメリットがあると認識が形成されていったと仮定できないだろうか。もちろん堺を操っているのは南蛮勢力である。彼らが物資を持ってこなければ貿易が成り立たない。ものを流通させてこそ商人の稼ぎができる。
その中で千利休というイエズス会にとってまたとないエージェントが作られた。
千利休がキリシタンという理由はいくつか挙げられている。特に腑に落ちるのは茶道という作法が教会のミサと似ているというものである。茶の湯の回し飲みは教会ではワインの回し飲みと同じような作法がある。こうした話は加治将一氏による論証が詳しい。私の考える千利休はキリシタン系の戦国大名の相談役のような形でその権勢をふるったとみている。例えば茶会などで秘密の話し合いが行われる。例えば明智光秀がこれこれに困っています、というものだっとしよう。それに対して千利休は南蛮の知識や堺の金の力、またはキリシタン大名の人脈で何かと用立てはずである。芸術面でも問題解決能力でも秀でていた千利休はこうして多くの、特にキリシタン大名に対して相応の影響力を携えるに至ったと思われる。
しかし、千利休自身が武将ではなく現実的な暴力手段を持っていないため、キリシタン大名達を一つにまとめて自分の支配下に置くということはできない。つまりキリシタン大名とはいえ、個々のつながりはそれほど強固ではなかった。それが明智光秀の本能寺の変の誤算となる。
事件としてはこのようなものだったはず
最初から最後まで利休の謀略通り。ある意味素晴らしい。単に主君の首を取って終わりではなく、その首を取ったものを悪人に仕立て上げ、それを討たせて天下を取らせるという2段構え。畏れ入った。
千利休は後に秀吉によって最終的には切腹させれることになるがその理由もまた謎となっている。ただ、この秀吉と利休の関係を考えれば納得がいくのではないだろうか。利休の立場で言えば秀吉に天下を取らせてやったのはまさに自分であり、恩人という立場で常に上から目線で物事を仕切っていたのではないだろうか。一方で秀吉も自らの権力が大きくなるにつれて利休という人間が疎ましくなってくる。自分より上に人間がいることが我慢ならない。そんな折、伴天連追放令が出される。当然利休としては取り消すようにロビー活動をしていたはずである。一方で天下を取り、それほど西洋文明を必要としなくなり、利休のエージェントとしての価値・威光が働かなくなってきた。そうすると今までは尊敬と敬意の念をもって接していた利休を憎しみの対象としてか見れなくなってきた。そしていちゃもんをつけて切腹させるという決断に至ったのだろう。
秀吉が自分が死んだ後のことも考えるのであれば、自らも存在するこのキリシタン大名ネットワークを温存しておく必要があった。元キリシタン石田三成が秘密警察のような立場でキリシタン大名を監視したせいでそのネットワークが完全に破壊され、関ヶ原の戦いでは双方にキリシタン勢力が存在するという事態になっている。これは利休という精神的支柱がすでにおらず、それに代わる人物も存在していないことに理由がある。千利休を生かし、キリシタン大名をまとめ上げることができれば家康も討ち滅ぼすことができただろう。ただし、家康が南蛮勢力に加担しないと仮定するのであれば。ただしそれは家康のこと、プロテスタント勢力と手を結び、イエズス会勢力と血みどろの戦いになった可能性もある。秀吉がローマ帝国のようにキリスト教を庶民を支配する道具として利用して、自分が南蛮勢力に加担していれば今頃日本は存在していないかもしれない。秀吉の功罪である。
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