Awaken English Power!http://eng-image-learning.com/blog/2024-03-28T11:30:22+00:00~ An English Learner's Esnography肝心なことをなぜか言わない日本の教育 - 歴史編①2021-01-01T19:53:51+00:002024-03-27T20:12:35+00:00Autherhttp://eng-image-learning.com/blog/author/Auther/http://eng-image-learning.com/blog/%E8%82%9D%E5%BF%83%E3%81%AA%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%92%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%81%8B%E8%A8%80%E3%82%8F%E3%81%AA%E3%81%84%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%95%99%E8%82%B2-%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%A8/<p>私は歴史に関しては得意だった方だが、いまいち教科書を読んでも腑に落ちないことが今から考えるといくつかあった。歴史が不得意という人もいるが、これは出来事を暗記と捉えてしまうことによるものが大きい。英語も同じである。単語、熟語、文法の暗記科目と捉えると絶対に平均点を大きく超えるような実力は身につかない。その意味でも、教科書はさっさと捨てるべきである。教科書は要所をつまみ食いしているだけで、少しでも異論があるような事であれば、問題を避けるために意図的にそういった説明を避けているはずである。そうすると物事の深い理解ができず、暗記に頼ってしまう。暗記を避けるにはなぜそうなったかを経緯を含めて書いているような書物を使うことが重要だ。昔と違い今はこの隙間を多様なブログがあり、うまい説明をしてくれているので、自分で検索して調べてみるのも良い勉強となろう。</p>
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<p>歴史に関して私が疑問だった、というより若干認識が違ったのは江戸時代の外様大名と譜代大名の違いである。教科書では<span>「関ヶ原で東軍だったのが譜代大名なんだ」と教えている。そうは書いていないかもしれないが、少なくともそう習ったことは覚えている。外様はいつ裏切るかわからない、信用ならないから幕府から常に見張られ、江戸から遠い場所に領地を持たせられ、譜代大名に周りを囲まれていた、というような認識で教わった。今もこのように認識されている人も多いのではないだろうか。</span></p>
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<p><span></span>このような認識は全く間違いである。譜代大名とはもともと徳川家の家臣だったものが、徳川が天下を取る過程で恩賞により大名に格上げされたもので、外様大名はもともと大名だったものである。関ケ原云々は全く関係ない。有名な譜代大名に井伊家(井伊直弼)や本田家(本田忠勝)などがあるが、元から家康の家来で臣従していた者たちである。一方外様はお客様という意味合いであり、合戦の時は味方になるはずの大名である。ちなみに最も大きな違いは、譜代大名は幕府の役職に就くことがあるが、外様はまずない、というのが通例である。これを覆したのが大政奉還であり、各藩の合議制による政治体制を導入した。</p>
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<p>また、外様大名は参勤交代という役目を担わなければならないが、譜代大名にはない。これは何も譜代大名が優遇されているわけではなく、役目の違いである。外様大名は幕府に税を取り立てられることはなく、自由に領国を収めることができる。そこで得られる収入は全て自分が獲得できるのだ。一方で幕府に対しては、江戸を守るという役目を負っている。これが兵隊を引き連れて参勤交代をする理由である。ちなみに「交代」というのはそれぞれの外様が交代で番をするということである。江戸の警護だけではなく、どこかの治水工事なども担当することがある。このようなことは譜代大名はやらない。譜代大名は江戸幕府内部の何らかの役職に就き、仕事をしなければならない。このように江戸時代は地方分権が確立された時代であった。</p>
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<p>したがって、外様と譜代の違いは主に幕府の役職につく家なのか、そうでないのかが一番の違いである。外様は幕府にとってはお客様なのだ。親藩も実は外様と同じ扱いで、幕府に口出しできない。親戚筋が政治に絡むことで起きる混乱を避けたのだ。</p>
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<p>このように何故そういう体制になったかを知ると、その時代の背景が分かり全てがつながってくる。これが理解という言うものであり、暗記とは真逆の勉強方法だ。</p>
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<p></p>佐藤ママ、広津留メソッドは実践できない2020-12-10T01:14:18+00:002024-03-28T11:11:20+00:00Autherhttp://eng-image-learning.com/blog/author/Auther/http://eng-image-learning.com/blog/%E4%BD%90%E8%97%A4%E3%83%9E%E3%83%9E%E5%BA%83%E6%B4%A5%E7%95%99%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%83%83%E3%83%89%E3%81%AF%E5%AE%9F%E8%B7%B5%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%84/<p>育児系ニュースに度々、佐藤亮子さん、広津留真理さんという東大、ハーバードに子供を入れた育児方法というお題で目にするようになった。自分の子供を頭が良く、技術がある人間に育てたいという希望はもちろん持っているが、彼女たちの理論には全く賛同できない。</p>
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<p>反対意見は結構あるようだが、その主張の多くは子供を管理しすぎているということらしい。子供を管理して自由を奪ってストレスをためさせてはいけないということみたいだ。まあ、確かに学校終わって塾に行かせているというのはしんどい。私も小学校の頃、進学のための多少厳しい塾に通っていたが、土曜日だけだったと思う。ただし、塾についていくには家での学習は当然のことでその方がハードだったと思う。小学校4年の頃から通っていたが、その頃は母親がつきっきりで夕方から寝るまで勉強の面倒を見てくれたおかげで成績は順調に伸びていった。学校でも一目置かれる存在になり、多少の自己肯定感の醸成には役に立ったと思う。</p>
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<p>無事に第一希望(親の)の中学に入学でき、母親もフルタイムで働く様になり、勉強に関してはあまり見てくれなくなった。そうすると勉強しているだんだんと成績が落ちてきた。入った当初はそれなりに上位に位置していたと思うが、高校進学のころになると、エスカレーター式でほぼすべての生徒が同じ高校に進学できるはずが、ギリギリ進学できるというレベルまで落ちていた。グレた、勉強が嫌になったということはない。理由は明快で自分なりの勉強方法ではテストの点を取れるまで訓練が行き届いていなかったのである。数学は問題を読んで一通り考えた後、解答をみて理解してハイ終了。あとは何とかして解法を覚えようとしていた。明らかに背景の知識を無視していたと反省している。そんなこんなで大学も大したところへ行くことができなかった。ただし、その反省があったため、大学で勉強する決心がついたことも確かであり、下手に成功してしまっていれば、無為な大学生活を送ったことだろう。</p>
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<p>話を戻して、子供の受験ということになると、子供を管理して、子供自身がそのことに対して反抗しなければ成績は自ずと伸びるはずである。なぜならどうすればテストで点が取れるレベルの知識にもっていけるのか、何がわかっていなくて問題が解けないのか、こうした疑問に効率的に答えを導き出せるからである。我流でやるとどうしても自分に甘くなり、知識の定着の前に学習を終えてしまう。親が最後の詰めをやってあげることができれば受験など余裕だと思う。ただ、何がわかっていないのかを知ることは多くの時間を管理に費やす必要があるのでそこが問題となる。もちろん適切な答えを導きだすだけのセンスは必要だし、教え方のうまさも必要である。これがないと子供も答えてくれないだろう。管理するとはつまり自分の時間を消費して子供と時間を共有することになる。現代の共働き当たり前の世の中になりその時間を抽出できる人はわずかではないだろう。</p>
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<p>私は最初に述べたお二方の問題はここで、現代の親は「そんなに子供を管理する時間はない」、である。子供のストレス云々はどうでもよく、成績がある程度ついてきて自尊心が満たされるならそれほどストレスにはならないと思う。ここで大切なことは勉強のやり方をしっかり教えることができればあとは同じことの繰り返しなのだから抽象度を上げてメソッドの方にもっと力を入れるべきだと考える。絵本を1000冊読ませました、とかどうでもいい努力である。それよりもわからないことがあれば、こうやって調べて、自分で解答を出す、その方法を教える。今はネットもあるのだからどうすれば自分の欲しい解答にたどり着けるのか、その方法を教えたり、もっと詳しく知りたかったら図書館に行って面白そうな本を一緒に探してみる。そういった方法の方が、建設的だと思う。そうやって知識を広げていくことで勉強が面白くなる。教科書がダメなのは周辺の知識を切り取って本質だけを抜き出そうとするところである。これでは知識に有機的なつながりが感じられず、記憶という方法に頼りがちになる。教科書は使ってはいけない。すべてを理解して使いこなせるようになって、その雑多な知識を整理するだけの代物である。</p>
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<p>こういった方法を体現できるようになればもう学校はいらない。時間の無駄である。学校という無駄を省いて効率化できれば小学校6年までに高校で習うことのほぼすべてをカバーできると思う。</p>
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<p></p>日本では幸福にはなれない4つの要因2020-11-18T00:59:37+00:002024-03-28T11:30:22+00:00Autherhttp://eng-image-learning.com/blog/author/Auther/http://eng-image-learning.com/blog/unhappy/<ul style="list-style-type: square;">
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<h2><span color="green"> 教育制度</span></h2>
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<h2><span color="green"> 労働環境</span></h2>
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<h2><span color="green">政治経済システム</span></h2>
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<h2><span color="green"> 稚拙な文化<span color="green"><span color="green"></span></span></span></h2>
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<p>日本の教育制度でダメな点は、自主性の欠如である。教科書を配り、テストをして知識の定着度合いを測り、それを元に優秀な人間かどうかを判定し、良い人間ほど有名大学や医学部などに振り分けれらるシステムとして存在している。優秀な人を選抜し、指導的な立場に立たせるということは必要不可欠だが、インプットの能力だけですべてを判定して良いのか甚だ疑問である。むしろすべてアウトプットの能力で人の能力は判断されるべきである。それはテストの点などではなく、何を創造したかで判定されるべきである。しかるに日本の教育制度は公平性?を求めているのかいまだにテスト主義である。確かに同じテストをして最高点を取ったものが一番優秀というルールにすればわかりやすく、不公平感も出ないであろう。自由に創作したものを良かった順序で並べるのは不可能である。夏休みの自由研究をさせて公平な判定ができるかと言われれば無理である。しかしここで思考停止してしまえば、ルールに忠実な人間が優秀な人間となり、ルールに逸れた細かいミスを見つけ出すだけのロボットが部下を詰る(なじる)組織がそこら中で跋扈する職場環境ができてしまう。これが今の日本の労働環境の姿である。</p>
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<p>日本の労働環境はかなり劣悪である。長時間労働、長時間満員電車、既存に従うだけ、オリジナリティゼロの職場。一方で会社は創造性が最も大事だなどど発破をかけてくる。しかし創造性など出そうものなら周囲から徹底して袋叩きである。テスト主義者、完璧主義者から見たら不完全なものは悪でしかない。既存のものを少しだけいじくったようなものが結局は採用され、ものによっては高評価される、事実の裏付けもなく、ただ単に好き嫌いだけで。小規模な会社になれば批判する人間も少ないため、ある程度の自由はあるが、何せリソースがない。こねくり回すだけの材料がなければ何もしようがない。一人で材料まで作り出すことは不可能。材料だけでは収益にならないので、君何やってんの?に繋がってしまう。こうなってくると本当に満足のいく職種や職場なんてあるだろうかという結論になる。雇われて仕事をする限り、QOL(Qolity Of Life)を高くすることはほぼ不可能なのである。創造性を発揮したければ、誰の干渉を受けれることのない自分だけの事業を自分でクリエイトするしかない。転職を重ねながら技術の幅を高め、営業からモノ作りまですべてできる多機能人材になり、起業する方法が堅実だが、これはかなりハードルが高い。つまりどんなに頑張っていい大学に入ったところで、会社という組織に属する限り、永久に満足できない状態が続くことになる。インプット型人間の集団は恐ろしい。リーダークラスになると中途半端に頭がよく、つまらないミスを見つけるのがうまいだけの小賢しいタイプで占有される。そういった人間は自らは創造せず、他人の批判することで自らの優秀さの証明をしようとする。そういう無責任集団が生み出したものが今の政治システムである。</p>
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<p>この30年改革改革とどれだけ叫ばれてきたことか。そして実際にその改革はなされた、経済システムの面では。その成果はあったのか? ここk30年でITの分野が新たに創出され、様々な点において効率化されたはずである。それはGDPにおいて数倍の価値があるはずである。今まで10人でやってきたことが5人でよくなれば、残り5人は別の生産ができるのだ。同じ産出量が期待できるのであれば生産量は倍になるはずである。ところがどうだろう。1994年以降でみればGDPは横ばい、アメリカは3倍以上になっているにも関わらずである。これは誰かが中抜きしているとしか思えない。残念だがこれが戦争に負けた国の宿命であり、まだここまで経済発展できたのだからましなのかもしれない。したがってもう物質的な豊かさは今後享受できない可能性が高い(精神的なものはこれまでもこれからもない)。ただ働いて生きていくだけの生活。教育制度が変わり、真に価値のある人材が供給できる体制になればいくらでも良い方向に変化できるだろうが、嫉妬深い国民性では偏差値教育から逃れらないだろう。IT革命でさえ、何の効果もなかった国にいったい何を期待すればいいのだろうか。</p>
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<p>時代遅れのテスト型教育で埋められた社会と絶対に発展しない政策しか実行されない国、そして極めつけはそれに気づくことができない幼稚で稚拙な国民性である。海外と比べると如実に表れるのが、趣味の領域である。日本の場合ほぼ、映画鑑賞や音楽鑑賞というただのコンテンツの消費を趣味だと思っている点である。こんなものをいくらやったところで何の成長もないだろう。受身なのである。一方で海外のインテリ層は筋トレであったり、スポーツ系や頭を使ったものが多い(チェスや瞑想)。基本アウトプットなのだ。アウトプットはインプットの質を高める。ランニングであればどうすれば早く走れるのか、必死で調べ、それを実行する。もちろん失敗もする。そうやって成長するのである。この成長するという感覚が日本人からは全く感じられない。そのような国民性が創出できるものなどたかが知れている。見た目やテストの点でマウントを取り合っている国民には何の未来も約束されない。このようなレベルの人間に囲まれて生活して豊かな人生が送れるだろうか。答えは否。真の満足が欲しいのであれば、常識や与えられるものの外にあり、それは自発的、内在的な欲求に従うしかない。そのために周囲の反対を押し切り、自分を貫く覚悟が必要である。その覚悟が英語の勉強へと駆り立てるのである。</p>
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