出会いとは、偶然ではなく必然ではないだろうか。
イメージで英語を理解すればものすごくわかるはずなのに、今の教材や教育制度では絶対にこの境地にたどり着けないだろうと思い、このサイトや教材を作り始めた。その時は認知言語学というものがあること自体知らなかったのだが、ここ数週間で認知言語論を学び、やはり私の考え方は間違っていなかった、同時にもっと早く気が付けばよかったと後悔した。そして、認知言語学の観点から英語を学習するという方法をもっと多くの人に知ってもらいたいと思う気持ちが強くなってきた。こうした試みをやるタイミングで認知言語学に出会えたことは運命めいたものを感じる。これからしばらくは動画制作はお休みして、英文法という観点で、前回お話しした現在完了のように高い抽象度から低い抽象度で英文法を説明していこうと思う。乞うご期待。
ただし、認知言語学での学習は強くその有効性を信じなければすぐにやめてしまうだろう。そのためにはこれまでの学習方法やそれを推奨するようなメディアであったり人を批判できる十分なロジックが必要である。そのためには前回お話ししたような洗脳を解く必要がある。日本語で覚える英単語学習や多読多聴についてはこれまで話してきたとおりだが、どれほど皆さんの心に届いたであろうか。たとえ届いたとしても、現在のネットを含め、周りからの同調性を含めた圧力があれば簡単に流されるのが人というものだ。また、私の提案する語学学習は決してやさしいものではない。人間の考えるというプロセスは2パターンあり、反射のように出てくるものとじっくり考えるタイプがある。数学の教科書をライトノベルを読むようには読めない。考えながら時間をかけて何度も読み返すような努力が求められる。英語も同じで認知言語学で学ぶということは反射的に英語を理解できるまではじっくりと腰をつけて学ぶ必要がある。絶対的な認知言語論へのdevotion(献身)は避けて通れない。そのためには徹底的にこれまで語学学習、ならびにその方法を教える者たちYutuberであれ、塾講師であれ、を完全に論破する必要がある。それも御自身でだ。これがないと簡単に元の語学学習に戻ってしまうだろう。そしてまた、認知言語学で学習する面白さに気づくことができなければ、何年も同じことを続けることはできないだろう。何も保証するものではないが、3年まじめにやればTOEIC900ぐらい難なく突破できる確信が私にはある。
そこで今回はどうすれば洗脳が解かれるのか、個人的な体験を書いてみようと思う。英語は関係ない。ダウンタウン信者、特に松本信者はこれ以降は読まないほうがいいかもしれない。
ダウンタウン松本と言えば、アラフォーぐらいの年齢層にとってかなり影響力の強かったタレントではないだろうか。自分もそうであったし、彼を笑いを理解できていると認識することで普段得られない優越感を持てたものだ。明るくても話のつまらないリア充を影でバカにできたし、それがある意味若年期唯一のアイデンティティーだったかもしれない。それがここ十年ほどはダウンタウンの番組を見ないことが多くなってきた。番組全体的に劣化していたし、特にワイドなショーでの浅い知識が垣間見える瞬間がたまらなくつまらないものに思えた。バラエティーに関してはコンプライアンスという問題がよく引き合いに出されるが、それによる影響は限定的なものだと思う。すべらない話では明らかに他の出演者に比べて話術や内容がつまらないので。すでに自分の中でのダウンタウンの価値はほとんどなくなっていたのだが、とはいえまだ過去の偉業といえるものを否定するところまでは行っていなかった。だが今は、完全にダウンタウン松本を特に才能のないオッサンだと思っている。それは下記の記事を読んだことが大きい。
気になる人は続きの映画批評を見ればよいと思う。私は映画は見ていないので、これ以上の記事は見ていない。映画の一般の方のレビューを見たがまあ、散々な内容である。これ以上ポンコツ作品をポンコツだと言っても仕方がないので、私は過去の偉業と言われているものを批判してみよう。洗脳を解くのは最高と言える作品を駄作と切り捨てるところまで行かないと洗脳は解けない。最高の作品は『ガキの使い」、『HEY!HEY!HEY!』、『ごっつええ感じ』といったところだろう。しかしどの作品にも言えることだが、『松本人志についてのノート』を書かれた杉田氏のように虚無というキーワードを使えば、その笑いの取り方はすべて同じであり、何の発想も工夫も見られない一発芸であることがわかる。
松本が多用するシチュエーションは主に上下関係、そしてのその距離感である。年齢差、お店とお客の関係、親方と弟子、先生と生徒、我々が住んでいる日本という狭い国で様々な上下関係が存在する。それは一つには文化と呼ばれる面もあるが、一方で理不尽なことも多く発生させている。その役割は秩序の保全であり、国際的に日本人は丁寧だとか礼儀正しいとか、災害が起こってもお店が壊されないなどというイメージが定着に一役買っている。道を歩いていて危険を感じる場面はあまりない。アメリカでは黒人がウロチョロしている地域に入ってしまうだけで妙な緊張感を感じたものだ。そうした目に見えない人と人の距離感をエキセントリックなパーソナリティが叩き壊す、まさに虚無に引きずり込むということやってコントの設定などを行っているのが松本の笑いの根本である。コントの登場人物にちょっとばかりの既視感があるとなおいい。現実感のないものはなかなか笑いになりずらいから。ただそうはいってもそのような人物が実際には少数であり、コントごと、フリートークごとに的確なパーソナリティを思いつけない。そこでわかりずらい、という概念が彼を表するときに使われるわけだが、なんてことはない、ただ距離感の壊し方を間違っただけなのだ。『HEY!HEY!HEY!』に関しては創作的な面が出ないトーク番組だったが同じことが言える。タレント、特にアイドルというこれまでのベールに包まれた謎の物体を、「誰と誰が仲悪いの?」で始まるトークにより、これまでのアイドルのイメージを叩き壊し、視聴者との距離感を縮めることでその面白さを演出した。結果的に昔の清楚観を持ったようなアイドルは駆逐され、学芸会的なノリの現実と近いようなタレントが跋扈するような状態に芸能界がなってしまった。ただこれに対する批判は特にない。芸能界の事情に全く興味はないので。
このような芸風が可能となったのは、またダウンタウンの実力ではない。すべて何者かにより作られた上でそれを演じることができたから。下に見下ろす立場でないと成立しない笑いがダウンタウンの笑いである。これはつまり最初から彼らをブランディングをするフィクサーがいたということ。それが誰かは内部にいないとわからないため、確証はないが作られた虚像の空間があった状況証拠は数多くある。まずは先輩島田紳助。彼の初めて見たときに才能が違った、彼の漫才をみて自分は漫才をやめようと思った発言など、明らかに異常と思えるほどの後輩称賛。そして後輩。今田東野を筆頭にダウンタウンには勝てない発言。取り巻きではない後輩もその存在感や行動を称賛するを惜しまない。そして一切の批判は許されない。一方で松本は本当に力のある後輩を褒めることはない。例外として一風変わった世間には受けがたいと思われる芸人をプッシュしたりする。例えばクッキー。ナインティナインなどの少しでも自分たちを脅かすようなタレントが出てくれば徹底的にたたくということもやっている。つまりある種のカリスマイメージがないと成立しない笑いをやっており、その威光がなくなると途端にメッキが剥がれ落ち、笑いがとれなくなる。こうした環境を作ったのは彼らではなく、事務所などの外部の力である。決して彼らの屈しない精神などではない。不遜な態度で売れることができるほど、甘い社会でもあるまい。吉本興業という会社の重役は今はすべてダウンタウン関係者であることを見てもバックで力を持った人間がサポートしていたことはわかる。彼ら以降、多くの若者が吉本のタレント養成所の門をたたいたという。カリスマ、奇人、天才と言われる人物に憧れて。大衆は思ったことだろう。松本さんすごい、自分もこうなりたい、そしてできる。こう思われている時点でもう天才でも何でもないのだが。真の天才なら大衆が理解などできるはずがない。もちろんすべてその思いは果たされることはない。なぜならダウンタウンの持っている用意されたカリスマという椅子に座る用意はもうされていないのだから。その椅子がない限り、同じような笑いを再現することはできないのだ。しかし逆は成り立ち、同じようなカリスマ性を外部が用意してくれるのであれば、少なからずダウンタウンと同等、それ以上の笑いを提供できた若手はいる(はず)。それがないのはまさにこの環境が用意されないからなのである。決して彼らを超える才能がないのではない。ただ、これは観測できない事象なので、多くの反論があることは予測できる。
このように考えることで私はダウンタウンという作られたカリスマの洗脳を解くことができた。今ではもはや普通のオッサンである。たとえダウンタウンと町で出くわしても何の感情も緊張もしない。以上、私の脱洗脳論だったがいかがだったでしょう。最近の彼らの劣化ぶりは多くの人が気づいているので、なるほどと思われた方もいると思う。ただ、洗脳を解くにはこれぐらいはっきりとした理論を自分の中に構築することが大変重要である。これまでの英語学習や理論を否定できないと認知言語学の可能性はいつまでも理解できないだろう。学習すると同時になぜこれまでの英語学習では実力が伸びず、日本人の英語力は底辺なのか、それは人の努力の差だけなのかしっかりと自分自身の中でロジックを構築していただきたい。その先にきっと未来があると思う。
これまでの英語学習や方法に疑いを持てない人のありがちな考え
情報過多の社会。その選別は思考のセンスと経験がなければできない。一人でも多くの人が救われますように。
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