日本の教育制度でダメな点は、自主性の欠如である。教科書を配り、テストをして知識の定着度合いを測り、それを元に優秀な人間かどうかを判定し、良い人間ほど有名大学や医学部などに振り分けれらるシステムとして存在している。優秀な人を選抜し、指導的な立場に立たせるということは必要不可欠だが、インプットの能力だけですべてを判定して良いのか甚だ疑問である。むしろすべてアウトプットの能力で人の能力は判断されるべきである。それはテストの点などではなく、何を創造したかで判定されるべきである。しかるに日本の教育制度は公平性?を求めているのかいまだにテスト主義である。確かに同じテストをして最高点を取ったものが一番優秀というルールにすればわかりやすく、不公平感も出ないであろう。自由に創作したものを良かった順序で並べるのは不可能である。夏休みの自由研究をさせて公平な判定ができるかと言われれば無理である。しかしここで思考停止してしまえば、ルールに忠実な人間が優秀な人間となり、ルールに逸れた細かいミスを見つけ出すだけのロボットが部下を詰る(なじる)組織がそこら中で跋扈する職場環境ができてしまう。これが今の日本の労働環境の姿である。
日本の労働環境はかなり劣悪である。長時間労働、長時間満員電車、既存に従うだけ、オリジナリティゼロの職場。一方で会社は創造性が最も大事だなどど発破をかけてくる。しかし創造性など出そうものなら周囲から徹底して袋叩きである。テスト主義者、完璧主義者から見たら不完全なものは悪でしかない。既存のものを少しだけいじくったようなものが結局は採用され、ものによっては高評価される、事実の裏付けもなく、ただ単に好き嫌いだけで。小規模な会社になれば批判する人間も少ないため、ある程度の自由はあるが、何せリソースがない。こねくり回すだけの材料がなければ何もしようがない。一人で材料まで作り出すことは不可能。材料だけでは収益にならないので、君何やってんの?に繋がってしまう。こうなってくると本当に満足のいく職種や職場なんてあるだろうかという結論になる。雇われて仕事をする限り、QOL(Qolity Of Life)を高くすることはほぼ不可能なのである。創造性を発揮したければ、誰の干渉を受けれることのない自分だけの事業を自分でクリエイトするしかない。転職を重ねながら技術の幅を高め、営業からモノ作りまですべてできる多機能人材になり、起業する方法が堅実だが、これはかなりハードルが高い。つまりどんなに頑張っていい大学に入ったところで、会社という組織に属する限り、永久に満足できない状態が続くことになる。インプット型人間の集団は恐ろしい。リーダークラスになると中途半端に頭がよく、つまらないミスを見つけるのがうまいだけの小賢しいタイプで占有される。そういった人間は自らは創造せず、他人の批判することで自らの優秀さの証明をしようとする。そういう無責任集団が生み出したものが今の政治システムである。
この30年改革改革とどれだけ叫ばれてきたことか。そして実際にその改革はなされた、経済システムの面では。その成果はあったのか? ここk30年でITの分野が新たに創出され、様々な点において効率化されたはずである。それはGDPにおいて数倍の価値があるはずである。今まで10人でやってきたことが5人でよくなれば、残り5人は別の生産ができるのだ。同じ産出量が期待できるのであれば生産量は倍になるはずである。ところがどうだろう。1994年以降でみればGDPは横ばい、アメリカは3倍以上になっているにも関わらずである。これは誰かが中抜きしているとしか思えない。残念だがこれが戦争に負けた国の宿命であり、まだここまで経済発展できたのだからましなのかもしれない。したがってもう物質的な豊かさは今後享受できない可能性が高い(精神的なものはこれまでもこれからもない)。ただ働いて生きていくだけの生活。教育制度が変わり、真に価値のある人材が供給できる体制になればいくらでも良い方向に変化できるだろうが、嫉妬深い国民性では偏差値教育から逃れらないだろう。IT革命でさえ、何の効果もなかった国にいったい何を期待すればいいのだろうか。
時代遅れのテスト型教育で埋められた社会と絶対に発展しない政策しか実行されない国、そして極めつけはそれに気づくことができない幼稚で稚拙な国民性である。海外と比べると如実に表れるのが、趣味の領域である。日本の場合ほぼ、映画鑑賞や音楽鑑賞というただのコンテンツの消費を趣味だと思っている点である。こんなものをいくらやったところで何の成長もないだろう。受身なのである。一方で海外のインテリ層は筋トレであったり、スポーツ系や頭を使ったものが多い(チェスや瞑想)。基本アウトプットなのだ。アウトプットはインプットの質を高める。ランニングであればどうすれば早く走れるのか、必死で調べ、それを実行する。もちろん失敗もする。そうやって成長するのである。この成長するという感覚が日本人からは全く感じられない。そのような国民性が創出できるものなどたかが知れている。見た目やテストの点でマウントを取り合っている国民には何の未来も約束されない。このようなレベルの人間に囲まれて生活して豊かな人生が送れるだろうか。答えは否。真の満足が欲しいのであれば、常識や与えられるものの外にあり、それは自発的、内在的な欲求に従うしかない。そのために周囲の反対を押し切り、自分を貫く覚悟が必要である。その覚悟が英語の勉強へと駆り立てるのである。
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